卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】:2ページ目
箸墓古墳が卑弥呼の墓とするさまざまな説
まず「卑弥呼説」を唱える白石太一郎氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)は、「箸墓古墳」の築造年代を西暦250年代後半から260年頃にまで遡れると考えています。白石氏は、同古墳が日本最古の定型化した前方後円墳であること、また卑弥呼と同じくシャーマン的性格を持つ倭迹迹日百襲姫命の墓と伝承されていることなどを根拠とします。
さらに「箸墓」の造営には少なくとも10年を要したとし、卑弥呼の死後、新たな政治連合を構築した後継者たちによって築かれたと推測しています。この連合とはおそらくはヤマト政権で、身分秩序に応じて大小の古墳を築く体制を整えていったというのです。
また白石氏は、纏向遺跡の北東にある大和(おおやまと)古墳群の「西殿塚古墳」を、台与とその男弟の墳墓と位置づけています。
一方で「台与説」を唱える辰巳和弘氏(元同志社大学歴史資料館教授)は、纏向古墳群を庄内0式から布留0式にかけての土器編年によって整理し、その築造順序を「纏向石塚古墳」→「纏向勝山古墳」→「纏向矢塚古墳」→「東田大塚古墳」→「箸墓古墳」としました。
その結果、「箸墓」と卑弥呼の没年は一致しないと判断しています。さらに『魏志倭人伝』において、卑弥呼は「共立された」と記されるのに対し、台与は「立てられた」とあることから、台与の時代は政治的に安定していたと推測。この安定期に巨大な前方後円墳を築くことが可能だったとして、「箸墓」を台与の墳墓とみなし、「東田大塚古墳」を卑弥呼の墓と位置づけました。
また「崇神天皇説」も存在します。これは卑弥呼あるいは台与を補佐した弟王、あるいはヤマト政権の初代大王こそが「箸墓」に葬られたとするものです。最古の大前方後円墳である「箸墓」はヤマト政権の象徴であり、初代天皇とされる「はつくにしらすすめらみこと(崇神天皇)」こそ墓の主にふさわしいとする説です。

