卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【前編】:3ページ目
新発見により箸墓の築造年代が遡る可能性が出てきた
「箸墓」は墳丘内部の学術調査こそ行えないものの、宮内庁の管理が及ばない墳丘周辺部については発掘調査が進められています。その結果、墳丘の裾部に沿って幅約10mの周濠がめぐり、その外側には盛土による外堤が築かれ、さらにその外側に外濠がめぐっていたことが明らかになっています。
つまり、「箸墓」の墳丘は二重の濠によって囲まれていたのです。さらに後円部の西側には、葺石を施した渡土堤が築かれていました。
この付近の内濠からは、4世紀前半に属するとみられる木製の鐙が出土しています。
これは、「箸墓」が築造されてから10数年後には、馬に乗った人物が100メートル近い外濠を越え、渡土堤を通って後円部に接近していたことを物語っているのです。
「箸墓」の築造年代については、従来、4世紀初頭(西暦300年初頭)と考えられてきました。ところが1995年、墳丘北西側に隣接する大池の護岸工事に伴う発掘調査で、3世紀後半の布留0式土器が出土しました。これにより、「箸墓」は西暦280年頃に築造された可能性が指摘されるようになったのです。
また、この土器の編年は前後10~15年とされており、そのため築造年代を260年頃までさかのぼると考える研究者も現れました。そうなると、卑弥呼の没年とされる248年に一層近づくことになるのです。
では【前編】はここまでとします。
【後編】では、『日本書紀』における「箸墓古墳」にまつわる記述をもとに、卑弥呼・台与・崇神天皇の墳墓について考察していきましょう。
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卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】
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