【大河べらぼう】誰袖花魁を身請けするも横領が発覚「土山宗次郎(栁俊太郎)」が辿った非業の末路:2ページ目
ロシア対策と蝦夷地調査を提言
田沼政権を支える一人として頭角を現した宗次郎は、天明3年(1783年)に工藤平助『赤蝦夷風説考(あかゑぞふうせつこう)』を読み、対ロシア政策の重要性を田沼意次に提言します。
翌天明4年(1784年)には荒井庄十郎(あらい しょうじゅうろう)と平秩東作(へづつ とうさく)を蝦夷地調査に派遣しました。
両名の報告を受けて天明5年(1785年)には上役の松本秀持(まつもと ひでもち)がより本格的な蝦夷地調査を指示。最上徳内(もがみ とくない)らが派遣されています。
【蝦夷地調査隊・主要メンバー】
- 隊長格:佐藤行信(玄六郎)
- 普請役:菴原宣方(いはら のぶかた。弥六)
- 普請役:青島政教(俊蔵)
- 普請役:皆川秀道(沖右衛門)
- 普請役:山口高品(- ただのり。鉄五郎)
- 平士:引佐新兵衛(いなさ -)
- 平士:大石逸平(- いっぺい)
- 平士:大塚小一郎
- 平士:鈴木清七
- 平士:里見平蔵
- 平士:最上徳内
※50音順(読み方は諸説あり)
調査は天明6年(1786年)まで続き、調査隊を東西二手に分けて蝦夷地を一周。また樺太や国後島まで到達したと言います。
中には極寒や壊血病で客死する者もおりましたが、数々の苦難を乗り越えて、多大な成果を上げたのでした。
後に蝦夷地調査の結果として『蝦夷拾遺』が執筆され、アイヌ文化やロシア文化に関する綿密な調査報告がなされます。
しかし彼らの偉業が田沼政権とともに葬り去られようとは、当時誰が予想できたでしょうか。
