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「べらぼう」歌麿ブレイクから入牢〜転落〜衰弱までの真相。史実では違った歌麿と蔦重の出会い

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ところが幕府は、美人画に芸者や茶屋娘の名前を入れることを禁止する新たな規制を打ち出します。

これに対して制作サイドは「判じ絵」という手法で応戦。背景にヒントとなる図案を描き込んで、「沖」と「田」で「おきた」を表すといった具合に、名前を暗示したのです。
幕府とのいたちごっこを続けながらも美人画を手掛けていた歌麿。

しかし1794年には耕書堂を去ってしまいます。その理由は明らかにはされていませんが、一説には東洲斎写楽の登場により、蔦重が写楽を重宝するようになったからとも言われています。

その後も意欲的に作品を発表していた歌麿ですが、彼のキャリアに終止符を打つ決定的な事件が起きます。

1804年に豊臣秀吉の「醍醐の花見」を題材にした作品「太閤五妻洛東遊観之図」が幕府の怒りを買ってしまい、手鎖50日・入牢3日の刑を受けてしまいます。

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これがもとで精神的に大打撃を負った歌麿は、その後病気がちとなり1806年に死去。享年54歳の短い人生を遂げました。

ドラマでどう描く?

  • 茶屋娘の絵はどう描いた?
  • 写楽との確執は?
  • 手鎖の刑の過酷な状況で蔦重都の関係は?

ドラマはあくまでフィクションなので、歌麿は蔦重に兄以上の思いを抱いている、いわゆる衆道の毛があるように描かれました。

しかし茶屋娘を見つける下りなどで茶屋娘と恋の鞘当てをするのかな?なども期待してしまいますし、写楽とのライバル関係も描くのかしら?など、楽しみはつきません。

※↓大河ドラマ「べらぼう」7月13日放送の振り返り記事

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