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大河「べらぼう」吉原遊郭での”芸者”の役割とは?遊女との違いはどこにあるのか?【前編】

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深川芸者は江戸の粋を具現化した存在だった

女性の芸者の前身は踊子といい、その誕生は江戸時代の初めに遡れるとされます。8代将軍の徳川吉宗の享保年間(1716~1736年)には、すでにその存在が評判となっていたようです。

ただ、芸者が全盛となるのは、まさに「べらぼう」の時代、つまり10代将軍徳川家治の宝暦から天明(1751~1789年)頃でした。

この当時、芸者は吉原芸者と深川芸者の二つが代表的な存在で、深川芸者が先に誕生したといわれています。先ずはこの深川芸者についてご紹介しましょう。

深川芸者は、深川が江戸の辰巳(東南)の方角に位置していたことから、別名「辰巳芸者」とも呼ばれていました。深川は隅田川の河口近くにあり、川を挟んで江戸時代の経済の中心地であった日本橋と向かい合っています。そのため、深川の客の中心は、日本橋で働く、威勢のいい商人や職人たちでした。

深川芸者(辰巳芸者)は、またの名を「羽織芸者」ともいいます。彼女たちは、江戸の「粋(いき)」を具現化する女性の代表格とされました。舞妓・芸妓が京の「華」であるならば、深川芸者は江戸の「粋」の象徴と讃えられたのです。

彼女たちは、流行に敏感で、着用する着物は色柄の新しさを好みます。また、髷に挿す櫛(くし)や簪(かんざし)も1、2本にとどめ、すっきりとした装いを心がけていたのです。

そのような“江戸の粋”を体現した深川芸者は、歌舞伎の作品にしばしば登場します。その代表作が、深川一の芸者・美代吉が主役の『名月八幡祭(めいげつはちまんまつり)』や、同じく辰巳芸者の仇吉と米八が男をめぐって、恋のさや当てを繰り広げる『梅ごよみ』なのです。

ちなみに深川芸者の名が美代吉など、女名前でないのは、彼女たちの気風がその他の芸者と違って“勇み肌”であったためとされています。つまり「気っ風(きっぷ)がいい」という思い切りが良く、さっぱりとした“江戸っ子の気質”を表す言葉そのもののような存在を理想としたのです。

いずれにせよ、歌舞伎に登場する深川芸者は、着物の着こなし・立ち振る舞い・喋り方・所作にいたるまで、すべてが「粋」な女性として描かれており、これが彼女たち深川芸者の本質でした。

3ページ目 もともとは遊女と同じだった吉原芸者

 

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