豊臣秀吉の幻の城「京都新城」は実在した!京都御苑に眠る”最後の城”はなぜ築城・破却された?:3ページ目
北政所の思惑
当時、大坂城は同時並行で三の丸普請が進められ、防御機能が飛躍的に高まっていました。幼い秀頼は新城でなく、鉄壁の要塞で守りたかったのだと推察されます。
代わって新城の主となったのは正妻の北政所(高台院)でした。北政所は豊臣政権で高い政治力を持ち、朝廷外交でも重きを成す存在でした。
慶長五年の関ヶ原の戦いで北政所は徳川家康を支持し、甥の小早川秀秋の裏切りに関与したともいわれています。
注目されるのは西軍挙兵後、北政所が京都新城の石垣や櫓を破却したことでしょう。
新城は徳川方にとって脅威だったので、北政所は豊臣家が西軍に与していないことをアピールしたかったのかも知れません。
北政所は寛永元年(一六二四)、「高台院屋敷」で亡くなっています。これは京の高台寺でなく、既に城郭でなくなった京都新城を指すことも近年明らかになっています。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
