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豊臣秀吉の幻の城「京都新城」は実在した!京都御苑に眠る”最後の城”はなぜ築城・破却された?

豊臣秀吉の幻の城「京都新城」は実在した!京都御苑に眠る”最後の城”はなぜ築城・破却された?:2ページ目

伏見城と並ぶ拠点

そこへきて、このたび発見された遺構は、南北八・五メートルの石垣、約一一メートル幅の堀、そして豊臣氏の城でおなじみの金箔瓦などです。

ここに東西約四〇〇メートル、南北約八五〇メートルという、聚楽第(東西約六〇〇×南北約七〇〇メートル)に匹敵する京都新城の存在が裏付けられたのでした。

縄張(設計)は聚楽第や大坂城と同じく、内城を外城が「回」の字型に囲む輪郭式城郭だった可能性が高いとみられています。

京都新城は慶長二年一月に現在の中京区で着工されましたが、四月に御所東南そばに場所を変更し、九月に完成しました。

この年は朝鮮出兵(慶長の役)を始めた年でもあり、秀次事件と聚楽第破壊はこの二年前にあたります。

明征服を目指した文禄の役から、慶長の役では朝鮮南部の制圧に目的が変更されましたが、六十一歳の秀吉はまだ意気軒昂でした。

後継者の秀頼邸である新城は、天皇・朝廷とのさらなる一体化を指向した城郭とみられます。またポスト聚楽第として、大坂・伏見城と並ぶ拠点でもありました。

この翌年に秀吉は病死しますが、遺言で秀頼に大坂入城を命じています。死を悟った秀吉は諸大名に忠誠をくどく誓わせており、豊臣家の将来を不安視していたことは間違いないでしょう。

3ページ目 北政所の思惑

 

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