大河ドラマ「べらぼう」の名物!?蔦屋重三郎(横浜流星)のダジャレのひとつ『これしか中橋』ってどこの橋?:2ページ目
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またすぐ近くには南伝馬町を抱える交通・物流の要でもあったことから、中橋は多くの人で賑わいました。
……しんばし(新橋)とやらんうちわたり、みやこの人のかけつけらん、そのなばかりは京ばし(京橋)を、人もろともにうちわたり、みればなにをもなかばし(中橋)の、きょうげん(狂言)おどり上るりや、木にてつくりしでこのぼう(木偶坊)、いとであやつるおもしろや……
※徳永種久『徳永種久紀行』元和3年(1617年)より
【意訳】新橋とやらを渡り、都の人々が駆けつける。名前ばかりは京と冠する(しかし都とは程遠い)京橋を人々と渡る。見ると「何をも無か橋」では、狂言踊りや傀儡舞(くぐつまい)などが活況を呈している……。
何にも「無か橋(中橋)」と言う割には、芸能の街として色々盛り上がっていたようです。
やがて紅葉川は江戸の都市開発が進む正保年間(1644〜1648)ごろから、次第に埋め立てられていきました。
蔦重が活躍していた安永3年(1774)ごろには埋め立ても進み、中橋広小路(なかばしひろこうじ)という地名に往時を偲ばせます。
※紅葉川が完全に埋め立てられたのは弘化2年(1845)のことです。
終わりに
今回は「これしか中橋」の中橋について、その歴史を紹介してきました。
ちなみに中橋は現代の八重洲通りと中央通りが交差する辺りとなります。
果たしてこれからも「これしか中橋」「何にも中橋」「他には中橋」など連発されるのでしょうか。
※参考文献:
- 『京橋区史 上巻』東京市京橋区、1937年
- 『中央区年表 江戸時代篇 上・中・下』東京都中央区立京橋図書館、1985年
- 『江戸明治流行細見記』太平文庫、1994年
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