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人殺しで島流し→脱出不可能の八丈島から世紀の大脱走を遂げた囚人と吉原の遊女「花鳥」

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出会いと脱走計画

1837年5月、佐原喜三郎が八丈島に上陸。彼は、犯罪に手を染めた武士が罪を償うために転身する「虚無僧(こむそう)」となり、島民の恵みや施しを頂戴して乞食同然の生活を送っていました。

約1年後の1838年、佐原喜三郎は放火罪で流されてきた花鳥と出会います。

花鳥は三味線が得意で、佐原喜三郎は三味線の音色に合わせて噺を語る義太夫の名手でした。共通の趣味で繋がった二人はすぐに意気投合し、同棲生活をスタート。そして、佐原喜三郎を中心とした「八丈島脱出計画」が始動したのです。

1838年7月3日、佐原喜三郎一行は漁船を盗んで島を脱出。八丈島の北の海流は荒れ狂っており、多くの船が難破する難所もありましたが、一行は海上生活6日間の末、無事に本土へ上陸を果たします。島の脱出自体は25件の事例が確認されていますが、本土上陸を成功させたのは佐原喜三郎一行だけです。

その後

八丈島の脱出後、佐原喜三郎と花鳥は喜三郎の両親を頼って帰郷。実家に帰ると、父の本郷武右衛門は病に伏していましたが、息子の顔を見て涙を流して抱きしめたのだとか。

しかし、島抜け(脱走)のウワサが広まり、故郷に居られなくなった佐原喜三郎は花鳥の実家を頼って江戸へ。数ヶ月後の1838年10月3日、役人に見つかった佐原喜三郎と花鳥は再び身柄を拘束されることになります。

そして花鳥は、女性囚人を収容する監獄施設「小伝馬町女牢」へ送還され、そこで女囚人のボス的存在として横暴の限りを尽くし、死刑が確定。

佐原喜三郎は永牢(無期懲役)として監獄送りになったのち、1845年に減刑で釈放されますが、長年の牢生活が祟り結核を患って39歳でこの世を去りました。

真の脱走者

ちなみに、佐原喜三郎や花鳥とともに八丈島を脱走したメンバーは合計で7人。うちひとりは、その後も捕まることなく逃走したままだといわれています。

 

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