すべては織田軍の罠だった!?「桶狭間の戦い」で今川義元はなぜ“休憩“していたのか…:2ページ目
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全てが謀略だった?
さらに言えば義元の休憩も、信長によって仕組まれたものだという説があります。
信長の意を汲んだ近隣の村人たちが、勝利の祝いだといって饗応の準備をしたので、義元の軍勢もつい油断して進撃体制を緩めてしまったというのです。
しかも、義元軍は大軍といえども各地に分散していたため、桶狭間周辺には織田軍のおよそ二倍弱程度の軍勢しか配置されていませんでした。
このため、義元は手薄の本陣を突かれて信長に討ち取られることになったのです。
ここでご紹介した学説が全て正しいとすれば、今川義元は最初から最後まで完全にハメられていたということですね(ちょっと出来過ぎという気はしますが)。
桶狭間の戦いで信長が見せたこうした巧妙な戦略は、彼の指導力と洞察力の証明だったと言えるでしょう。
この勝利をきっかけに、信長は周辺諸国にその名を知られるようになり、有力大名としての地位を確立していくことになったのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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