狂人?人格破綻?度重なる狂気的乱行の末に自刃した徳川2代将軍・秀忠の息子「徳川忠長」の生涯【後編】:2ページ目
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自刃の真相
忠長の処分についてははっきりとした真相がわかっているわけではない。
上述の通り、忠長自身の狂気が原因で自刃に追い込まれたという見解が定説となっているが、家光の陰謀説なるものも根強く残っている。
いずれにしても神君・家康公の孫であり、2代将軍秀忠を父に持つ自身の弟に自刃を言い渡す幕命を下した家光には、抜き差しならない理由があったことは容易に推察することができる。(自刃は忠長の独断だったとする説もあり)
その後
自刃から43回忌にあたる1675年、最後の場となった願行山大信寺に墓が建立された。大信寺には硯箱(すずりばこ)や水晶のつぼ、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが、姉の「千姫」によって寄進され位牌と共に保存されている。
正室である昌子は、忠長の自刃後に仏門に入り「北の丸殿」と称した。側室も数人いたとされるが実子の存在は確認されていない。
また、忠長の「菩提を弔って欲しい」との頼みに答え、忠長の死後、供養のために寺を建立した家臣の話も残っている。
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