【逃げ上手の若君】武将・北条時行の最大の庇護者にして諏訪氏の当主・諏訪頼重の人生と真の姿:中編:2ページ目
北条時行を擁立した中先代の乱へ参加する
建武の新政が敷かれはしたものの、各地では不満を持つ北条の残党が決起を繰り返していました。
建武2(1335)年には、時行の叔父・北条泰家が西園寺公宗らと共に建武政権転覆を図ろうとして失敗。逃れて北条氏の残党に挙兵を呼びかける事件がおきています。
やがて頼重は養育していた北条時行を擁立。信濃国の滋野氏や仁科氏らに呼びかけて挙兵に及びます。
世にいう中先代の乱の始まりです(北条高時=先代。足利尊氏=当(御)代。その間の北条時行が中先代)。
時を同じくして、北条一族の名越時兼が北陸の武士を糾合して挙兵。全国を巻き込む動乱が始まりました。
頼重方には、諏訪氏と繋がる保科弥三郎や四宮左衛門太郎も参加します。
保科・四宮勢はは信濃国の船山守護所を襲撃。青沼合戦において市川助房らと戦い、最後は敗走しました。
小笠原貞宗らは保科らを追撃。しかしこの間、諏訪勢は信濃府中にある国衙を襲撃して、国司・清原真人某を自害に追い込みました。
中先代の乱勃発は、京にある建武政権にも衝撃を与えます。
当初、建武政権は頼重らの軍勢が、京を目指すと推測。北条時行を擁立しているとの情報までは掴んでいなかったようです。
頼重と時行は、武士たちを糾合しつつ武蔵国に進撃。目的地は、かつて北条の本拠地である鎌倉でした。
このときの鎌倉は、建武政権の下に鎌倉将軍府が設置。鎌倉将軍府将軍・成良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁した足利直義(尊氏の弟)が執権として統治に当たっていました。
建武2(1335)年7月20日前後、時行方は武蔵国女影原で鎌倉将軍府の澁川義季や岩松経家らと衝突。小手指ケ原では今川範満と、武蔵府中で小山秀朝とそれぞれ戦います。
激闘の末、将軍府の義季らはいずれも討死を遂げるに至ります。
頼重らには、かつて有力御家人であった三浦氏や宇都宮氏の一部も参加。勢いそのままに鎌倉への進撃を行います。
7月23日、不利と悟った足利直義は成良親王と足利義詮(尊氏の嫡男)を連れての脱出を決断。このとき、直義は政敵で幽閉中の護良親王(後醍醐天皇の皇子。前征夷大将軍)を殺害させるという暴挙に出ています。
護良親王が時行らに擁立されることを恐れてのことでした。どれほど時行と頼重の勢いが凄まじかったかがわかりますね。
7月25日、時行軍は鎌倉を制圧。逃げる直義勢を駿河国手越河原に追撃してさらに撃破するなど勝利を重ねます。
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