すべては汚名を返上するため…幼い弟たちを実母に殺害された戦国武将・戸次統常の覚悟と悲しい定め:2ページ目
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戸次川の戦いに参加と戦死
出陣した統常は、鶴賀城救援のために派遣された豊臣軍に加わり、島津軍と対峙します。
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)と呼ばれたこの戦いで、仙石秀久と長宗我部信親と共に島津軍と戦い、5回ほどの交戦で勝利を収めました。
しかし、次第に不利な状況となり、戸次鎮時や統昌といった一族郎党100人余と共に22歳の若さで討ち取られました。
戸次家はそれぞれ立花宗茂に仕官する
統常討ち死に後の戸次家は、戦火を逃れた嫡子・延常が家督を継承しますが、早世したことで断絶します。
一方、島津家の人質だった統常の弟・統利は、九州征伐後に開放。親戚の立花宗茂に仕官し、茂照と名を変え筑後柳川藩士となりました。
そして、戸次家はその後も分家や庶家含め柳河藩士として柳川藩を支えていったのでした。
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