「本能寺の変」と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【前編】:3ページ目
山崎の戦いと藤孝
ここまで徹底して反明智を貫いた藤孝のことですから、山崎の戦いでは羽柴軍の一翼を担い果敢に戦った……かと思いきや、そんなことはありませんでした。
細川軍は領国から一歩も動かなかった、あるいは動けませんでした。
当時、細川家は丹後国(現在の京都府北部)南部に拠点を置いていたのですが、丹後北部の一色家が光秀に味方することを表明していました。
羽柴軍と明智軍が激突したのは京都と大阪の境目あたり。藤孝が軍を率いて南下したら、無防備になった本拠地を一色に襲われかねません。一色側から見ても、細川家がいる以上京方面へ進出することができません。
結局、丹後国で細川家と一色家がにらみ合っている間に山崎の戦いは起こり、決着していたのでした。
これは「戦いに間に合わなかった」ということで責められても不思議ではない状況です。しかし勝者となった秀吉からは
「あなた方の活躍は見事でした。今後も仲良くしてください(意訳)」
という絶大な感謝を受けることになりました。
【後編】の記事はコチラ↓
「本能寺の変」と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【後編】
1582年に起きた「本能寺の変」とその後の混乱は、日本の歴史を大きく変えました。天下統一に向けて快進撃を続ける織田信長が明智光秀に討たれ、その光秀も羽柴秀吉によって敗死し、最終的に秀吉が日本…