【光る君へ】怨霊の祟りによって殺された藤原道長と明子の娘・藤原寛子。悲劇の生涯をたどる
藤原道長と側室・源明子の娘・藤原寛子(かんし/ひろこ)。道長の娘としては三女ですが、明子の娘としては長女になります。
平安貴族の習いとして入内を狙いますが、寛子の入内先は母の想いと少し違ったかも知れません。
今回は道長と明子の娘・藤原寛子の生涯をたどっていきましょう。
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小一条院・敦明親王に入内
藤原寛子は長保元年(999年)に誕生、寛弘6年(1009年)に11歳で裳着(もぎ。成人の儀式)を行いました。
同年に従四位上、16歳となった長和2年(1013年)に従三位へ昇叙されます。
寛仁元年(1017年)11月22日、20歳となった寛子は小一条院こと敦明親王(あつあきら。三条天皇の第一皇子)と結婚しました。
ちなみに寛子はもともと藤原提子(ていし)と呼ばれており、寛子という名前は入内した寛仁元年の元号からとって改名したと考えられているようです。
入内した提子あらため寛子は母の実家である高松殿を居所としたため、高松殿女御(たかまつどののにょうご)と呼ばれました。
晴れて入内を果たした寛子ですが、夫である敦明親王は道長によって春宮(皇太子)の座を辞退させられており、その前途は絶たれています。
道長は敦明親王を懐柔し、怨みを和らげるための政具として、寛子を入内させたのでした。
「こんなの酷すぎます!先の見込みがない親王殿下に入内させるなんて、あの子が哀れではありませんか!」
明子はさぞかし怒り嘆いたことでしょうが、敦明親王は春宮の座を辞退したことにより、准太上天皇(上皇に準ずる存在)としての身分を与えられています。
「まぁまぁ、たとい一代であっても小一条院は天皇陛下に準ずる存在であらせられるのだから、そう悪い相手ではあるまいよ……」
なんてやりとりがあったかはともかく、寛子は敦明親王の后となったのでした。