誠の志は維新後も…「新選組」の中で明治維新後も生き抜いた3人の古参隊士たちの最期:2ページ目
入隊して早々、大出世した尾形俊太郎
2人目は尾形俊太郎(おがた-しゅんたろう)です。俊太郎は魁と同じ年である文久3年(1863)に入隊し、すぐに幹部クラスである副長助勤の役職に就任します。
また、翌年12月の組織編成では5番隊組長として名を連ねました。ここまで俊太郎が着々と出世できたのは、彼がインテリであったことが要因でした。
刀一本でのし上がってきた近藤勇にとって、文学に長けた俊太郎は新選組を文武両道の組織にするために必要不可欠と考えていたことでしょう。それを裏付けるように慶応元年(1865)と慶応2年(1866)に長州征伐の幕命を伝えるため、幕臣や勇、伊東甲子太郎たちと共に長州へ向かっています。
恐らく長州藩の内部調査やそれに伴う交渉を行うために、俊太郎たちを選りすぐったと考えられます。
また、慶応元年(1865)の組織編成では諸士調役兼監察と文学師範となり、文官として新選組を支え、慶応3年(1867)には再度副長助勤に返り咲きました。
その後、俊太郎は慶応4年(1868)から始まった鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いを経て、斎藤一と共に会津藩に残留し、敗戦後も会津藩にいました。
そして、程なくして故郷である熊本県へ戻り、私塾を開いてひっそり暮らし、大正2年(1913)に他界。75歳でした。