藤原道長 暗殺計画に加担!?平維衡と伊勢国の覇権を争った軍事貴族「平致頼」とは何者?【光る君へ】:2ページ目
天下之一物・道長四天王に数えられる
平致頼は武勇にすぐれ、後世「天下之一物(大江匡房『続本朝往生伝』)」と讃えられました(ほか源満仲・源満政・源頼光・平維衡)。
また藤原道長に仕える道長四天王(藤原保昌・源頼信・平維衡・平致頼)の一人にも数えられています。
しかし又従兄であった平維衡とは仲が悪く、伊勢国においてしばしば権力抗争を繰り広げました。
恐らく四天王とは言っても、同じ主君の下で力を合わせたというより、武力自慢の荒くれ者上位4名といった感じだったのではないでしょうか。
伊勢国における同族抗争があまりにひどいため、長徳4年(998年)には朝廷から出頭命令が下ります。
平維衡は朝廷の意向をくんでただちに過状(かじょう。始末書)を提出。反省の色を示したのに対し、致頼は朝廷に忖度することなく意地を張り通しました。
その結果として平維衡は軽めの罰ですまされます。それに対して致頼は位階を剥奪された上で隠岐国へと配流されてしまったのです。どうやら平維衡の方が世渡り上手だったのでしょう。
配流から3年後の長保3年(1001年)、致頼はようやく罪を赦され、五位に復帰できたのでした。