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私が父上を殺すかも…ミステリアスで謎に包まれた織田信長の正室「濃姫」の生涯

私が父上を殺すかも…ミステリアスで謎に包まれた織田信長の正室「濃姫」の生涯:2ページ目

「もしかしたら、私が父上を殺すことになるかもしれません」

天文18(1549)年、帰蝶は15歳となり、いよいよ信長のもとへ輿入れすることとなりました。

両親に別れの挨拶を告げる彼女に、父・道三は懐刀を与え、

「信長が本当のうつけなら、これで殺すがよい」

と言いました。

それに対し、帰蝶はこう答えました。

「もしかしたら、私が父上を殺すことになるかもしれません」

帰蝶は、信長が「うつけ者」のふりをしているだけで本当はとんでもなく大物だったならば、父よりも彼を取り、そのまま戻らないかもしれない。それはつまり、父を殺すことになるかもしれない、と言ったのです。

さすが「まむし」の娘だけに、機知に富んでいたことが伺えます。これには、父の道三もタジタジだったのではないでしょうか?

腹の探り合いの夫婦。しかし道三の死後は…

帰蝶は結婚後、「美濃から来た姫」という意味で「濃姫」と呼ばれるようになりました。この時代の政略結婚とは、敵方の家にスパイとして送り込まれることと同じです。濃姫も夫・信長の様子を観察し、実家に父に手紙で報告することを欠かしませんでした。

信長も信長で、濃姫に嘘を言って試しつつ、彼女の実家の内紛まで誘発しようとしたエピソードが残っています。夫婦とはいえ、お互い腹の内の探り合いで、一緒にいても気の休まらない仲だったことでしょう。

そんな2人でしたが、濃姫の父・道三が息子(つまり濃姫の兄弟)の裏切りにより殺される事件で、状況が一変します。この時信長も道三の同盟軍として出兵していましたが、「道三死す」の知らせを受けると、なんと退却してしまったのでした。

そしてこれ以降濃姫がどうなったかは、信長関連の資料のどこを見ても書かれていないのです。

濃姫之像(清洲城模擬天守横)/Wikipediaより

一説では、濃姫は本能寺の変まで生き、信長と共に亡くなったとされています。また織田家の菩提寺の過去帳には「信長公御台(信長の正室)」という文字が見られ、それによるとこの人物は信長の死後30年以上も生き長らえていたとのことです。

その他にも、実は信長とは離婚していたなど、様々な仮説があります。生涯に謎が多いからこそ、「ミステリアスな姫」として人気を呼んでいるのかもしれませんね。

 

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