【光る君へ】相次ぐ和泉式部(あかね)の不倫、不倫、不倫…それでも離婚しなかった夫・橘道貞の生涯:2ページ目
相次ぐ妻の不倫。それでも離婚しなかった理由は?
やがて和泉式部が為尊親王(ためたか。冷泉天皇第三皇子)と恋に落ちますが、それでも道貞は離婚せず、夫婦関係を維持しています。
長保4年(1002年)6月13日に為尊親王が薨去すると、今度はその弟である敦道親王(あつみち。冷泉天皇第四皇子)と恋に落ちてしまいました。
その敦道親王も寛弘4年(1007年)10月2日に薨去してしまいます。
他にも源雅通(まさみち)や治部卿(じぶのきょう。源俊賢か)との恋愛関係も噂されるなど、とにかく華やかな妻だったようです。
夫としてはほとほとうんざりしたでしょうが、それでも離婚はしませんでした。
寛弘元年(1004年)に陸奥守となった道貞が陸奥国(現代の青森・岩手・宮城・福島県)へ下向する際、和泉式部から歌を贈られていることから、最低限夫婦としての体裁は保っていたのでしょう。
ここまで奔放な妻だとさすがに愛情もなさそうですが、そこまでして引き止めたかったのか、あるいは体面を気にしたのかも知れません。
しかしそんな無理がいつまでも続く訳はなく、最終的に道貞と和泉式部は離婚することになります。
具体的な時期は不明ですが、和泉式部が長和2年(1013年)頃に藤原保昌(やすまさ)と再婚しているため、それより前には離婚していたのでしょう。
ちなみに藤原保昌は道長の家司であり、武勇をもって知られた人物です。
和泉式部が惚れたのか、それとも道長の命令によるものかは分かりません。
ともあれ道貞はようやく肩の荷が下りたと安堵したのか、あるいは妻に捨てられたと嘆いたのでしょうか。
よく「女に捨てられた男は短命」と言いますが、道貞は和泉式部の再婚から程ない長和5年(1016年)4月16日に卒去したのでした。