実は日本を攻撃する気はなかったペリー提督!「交渉」から「恫喝」に切り替えてまで開国を急いだ理由:3ページ目
リベリア建国の立役者
そもそもペリーはどんな人物だったのでしょうか。彼は当時の西洋人と同じく、西洋=文明国、日本=半文明国という認識を持っていたのは間違いありません。
そのため人種的な偏見を持っていたというイメージがありますが、そこまでゴリゴリに偏見で固まった人ではなかったようです。
実はアメリカでは、ペリーは黒人奴隷の解放運動に力を入れていました。
彼が20代の頃、アメリカでは奴隷制が崩壊し、黒人奴隷をアフリカに返還しようという運動が活発化していました。
ペリーはこれに賛同し、自ら船団を指揮して黒人をアフリカへと送り届けているのです。このとき造られた町が現在のリベリアで、同国では今でもペリーのことを建国の立役者として尊敬しているというほどです。
その後ペリーはメキシコ戦争に従軍して功績を残し、アメリカの勝利に貢献。占領地の民政でも手腕を発揮しました。
彼はこのような功績を認められたからこそ、日本への使者という大役に選ばれたのです。
参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
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