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脚色と誤解の数々…実は石田三成と徳川家康は険悪な仲ではなかった!二人の関係の誤解を解く【後編】

脚色と誤解の数々…実は石田三成と徳川家康は険悪な仲ではなかった!二人の関係の誤解を解く【後編】:2ページ目

無理がある密約

しかし現在、両者が事前に提携していた可能性は極めて低いと考えられています。

まず、『続武者物語』は武将にまつわる逸話を集めた書物で、そもそも脚色が著しいのです。同書に登場する三成の書状は原本が確認できておらず、偽文書である可能性が高いとみられています。

それに、原本が残る三成自信が書いた手紙を読むと、共謀説が間違っていることは明らかです。

三成は関ヶ原の戦いが起こる約一か月前に、真田昌幸に景勝の説得を依頼する手紙を出しており、昌幸を介して、出兵と三成との連携を依頼しているのです。

つまり、三成は景勝と直接交渉できる立場ではありませんでした。

この手紙が出された時期には、家康は三成の挙兵を知り、西軍の討伐に向かっていました。景勝も出羽国(山形県)で東軍に与する最上義光と伊達政宗の連合軍との戦いを優先しており、三成の挙兵に応じる余裕はなかったはずです。そのため、景勝は三成の出兵要請に応じていません。

これでは、密約があったとは考える方が無理があるでしょう。

【前編】で解説した「家康との個人的な不仲説」といい、今回の「上杉との共謀説」といい、石田三成の人物像や人間関係については脚色と誤解によって認知されている事柄が多くあります。今後の歴史研究では、こうした誤解や俗説もただされていくでしょう。

参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社

 

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