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容赦なき粛清!3度目の介錯でようやく絶命、新撰組の古参隊士・河合耆三郎の切腹劇【前編】

容赦なき粛清!3度目の介錯でようやく絶命、新撰組の古参隊士・河合耆三郎の切腹劇【前編】:2ページ目

河合耆三郎

1838年、播磨国(現在の兵庫県)の米商人の家に生まれる。新撰組入隊の正確な日時は定かでない。新撰組の隊名を用いる以前、壬生浪士組時代の構成員名簿に勘定方として名前が確認できることから、1863年の9月以前には入隊していたことがわかる。

浪士としての活動

勘定方であった河合だが、新撰組の自警活動にも参加している。1864年に起こった池田屋事件(中央政界への影響力低下を危惧した長州藩を中心とした尊王攘夷派浪士たちと繋がる古高俊太郎を新撰組が捕縛。浪士たちが古高奪還を相談するために開いた会合現場を新撰組が襲った事件)では、副長である土方隊の構成員として参戦したとされる。

幕末のハイライト・池田屋事件!新選組が討幕派の志士たちを斬ったその真相とは

元治元(1864)年6月5日、新選組が三条木屋町の池田屋に踏み込み、過激な尊王攘夷派の多くを殺害、捕縛しました。世にいう池田屋事件です。池田屋に集った浪士たちは、京都大火を計画していたといいます。…

池田屋の会合を発見し最初に踏み込んだのは近藤隊であり、河合が組み込まれていた土方隊は後に合流している。河合が相対する浪士たちと刃を交えた記録はないが、現場に参加していた可能性は高いと考えられている。

【後編】では新撰組隊士として尽力した河合が切腹するに至った理由と顛末を探る。

【後編】の記事はこちらから

 

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