手洗いをしっかりしよう!Japaaan

吉原遊廓をも脅かす私娼に…江戸時代の銭湯で働く「湯女(ゆな)」による過激化した性的サービスの実態

吉原遊廓をも脅かす私娼に…江戸時代の銭湯で働く「湯女(ゆな)」による過激化した性的サービスの実態:2ページ目

湯女から風呂屋女として存続

江戸中期。湯女は人気を博し遊廓を脅かすまでになる。遊郭と違い非公認の私娼であった湯女は、幕府による粛清の対象となった。

しかし、庶民の根強い需要から「風呂屋女」として表向きは遊郭と差別化をはかりながら売春を継続。実質的に湯女は存続した。湯女の中には人気になる者もおり、幕府によって吉原遊郭へ引き渡され遊女となることもあった。

明治期の吉原遊女(Wikipediaより)

江戸期以降の湯女

幕府は風紀の乱れや公娼の保護のため、湯女や風呂屋女の禁止令を定期的に発令し、取締りを強化するも効果は薄かった。

江戸では1657年の風呂屋一斉打ち壊し、1703年の元禄大地震を経て風呂屋の体制が一変。それまでのように表向きな湯女や風呂屋女の存在は鳴りを潜めたが、幕府の眼を盗む形での売春は継続し、健全な銭湯として営業する反面、売春を行う湯女が常駐した。

一方で、公娼である遊女が働く遊郭は幕府公認で継続し、1656年に現在の台東区浅草寺裏に本拠地を移転。1957年の売春禁止法の施行によって姿を消すも、同地には風俗店が今も存在する。

 

RELATED 関連する記事