幕末、池田屋事件に巻き込まれ新撰組に討たれてしまった維新の志士・石川潤次郎とは何者か?:2ページ目
2ページ目: 1 2
池田屋事件に巻き込まれる
京都に出てきた潤次郎は、かつて土佐勤王党の同志で脱藩していた望月亀弥太(もちづき かめやた)と再会します。
土佐勤王党の弾圧後、江戸で坂本龍馬や勝海舟らと交流する中で、土佐藩の帰国命令を拒否。京都の長州藩邸に潜伏していたのでした。
「おお、望月君。息災であったか」
「あぁ。風雲急を告げる昨今、国許に帰ってのうのうとなどしておれぬ。今は尊皇攘夷の先駆けとして、国事に奔走しておる」
などと言ったかどうか、二人は旧交を温めます。
そんな元治元年(1864年)6月5日、潤次郎は望月と約束でもあったのか、望月のいる池田屋を訪ねました。
「やあ石川君。ゆっくりして行きたまえ……」
「御用改めである!」
「「!?」」
突如として現れたのは、京都洛中の治安を守る新撰組。過激派志士の謀議があると情報を聞きつけ、池田屋を襲撃したのです。
「石川君、恐らく君は狙われていない。すぐ逃げろ!」
「何を言う。友を見捨てて逃げたところで、生きる場所などあるものか!」
潤次郎は迫り来る新撰組へ果敢に抗戦。武勇を奮うも虚しく討死して果てたのでした。享年29歳。
終わりに
かくして志半ばに落命した石川潤次郎。死後30数年が過ぎた明治31年(1898年)に政府から正五位を贈られました。
足軽から殿上人(内裏の昇殿を許される身分)への大出世。これも偶然池田屋に居合わせ、一命を賭した賜物と言えます。
同志たちとともに明治維新を見届けることはできませんでしたが、その志は今も日本人の精神に息づいているでしょうか。
※参考文献:
ページ: 1 2