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暗殺が横行した江戸時代の幕末に「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【前編】

暗殺が横行した江戸時代の幕末に「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれた暗殺者たちの末路【前編】

2 河上彦斎(かわかみげんさい)

元熊本藩士の河上彦斎は、実は四大人斬りの中では異質な存在でした。人斬りの中では珍しく教養を持ち合わせていた人物ですが、儒学者轟武兵衛、国学者林桜園、宮部鼎蔵に学び、清川八郎とも交流を持ち、過激な尊王攘夷論者となっていきました。

低い姿勢からの片手抜刀の達人で、逆袈裟切りが得意という反面、普段は礼儀正しく優しく温和で、小柄な女性のような色白の色男でした。これがマンガ「るろうに剣心」の緋村剣心のモデルとなった所以です。

過激な尊王攘夷論者となったころに多くの人間を斬ったと言われており、「蝮蛇(ひらくち)の彦斎」という通り名で呼ばれていました。この通り名の意味は、「一度にらまれたら逃げられない」というところからきていますが、この頃河上彦斎が人を暗殺したという記録は残っていません。

しかし、攘夷の妨げとなる物には容赦なく、仲間たちとの酒の席で話題にあがった、妨げとなる幕府の役人の首を斬って戻ってきたという恐ろしい逸話も残っています。

河上彦斎が暗殺者として確実に記録に残っているのは、実は佐久間象山の暗殺のみです。
佐久間象山は開国論者の重鎮で、京都を昼間西洋の馬の鞍を使い馬で闊歩していたところ、「西洋かぶれ」という理由だけで衝動的に暗殺されました。

その後、「禁門の変」では長州の久坂玄瑞に協力しました。久坂の死を受けてさらに人斬りが一時加速しましたが、彦斎は突如人斬りをやめます。理由としては諸説ありますが、暗殺後しばらくして、佐久間象山が欧米に対応するために公武合体を唱えていた人物であり、それは河上彦斎が唱えていた攘夷論と広い意味では同じであることを知り愕然としたためと考えられてます。

河上彦斎の末路
最後まで強固な攘夷論者を貫き通した結果、河上彦斎は投獄されますが、新政府になってからは一度解放されます。しかし、新政府からも疎まれ、政府要人の暗殺や奇兵隊反乱の首謀者を匿ったなどの嫌疑をかけられ、東京日本橋小伝馬町で斬首されました。享年38歳。

開国を進める政府が河上彦斎の攘夷論者としての影響力を危険視したとも言われています。
不運としか言いようのない最後になってしまいました。

前編 まとめ

前編では、田中新兵衛と河上彦斎について紹介しました。同じ人斬りと呼ばれた二人でも暗殺の方法や理由は全く違っていました。ただし、人斬りに良い末路など待っていないということだけは確かなようです。

【後編】では四大人斬りの残り二人を紹介します。

 

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