平安時代にも流血抗争があった!藤原道長と藤原隆家が繰り広げた「七条大路の合戦」とは?【光る君へ】:2ページ目
果たして七条大路の合戦は道長側の勝利に終わりました。が、後日「お礼参り」があったようです。
八月三日 丁丑 或云、依昨日濫行 右大臣随身殺損事、隆家不可参内由、被召仰也云々、倫範云、左府談云、隆家卿若不奉下手人者、不可参内之由、被給綸旨、
※藤原実資『小右記』正暦六年(長徳元年・995年)8月3日条
【意訳】8月3日、丁丑(ひのとのうし)。ある者が言うには「昨日、道長(右大臣)の随身(ずいじん。家臣)が殺害された。隆家が参内しない理由を問いただすべきだ」と。
倫範らは「もし隆家が下手人を奉らずば(差し出さねば)、参内すべからざるよう綸旨を給わろう」と。
結局、隆家が大人しく下手人を差し出すはずもなく、両者の対立は激化の一途をたどったようです。
終わりに
七月廿七日 辛未 人々云、七条大道有合戦、是則中納言隆家僕従所為云々、未刻許忠宗申送云、忽有右府仰、馳向七条闘乱所、先参所能令申者、昏黒左(府)、生麺忠宗、右(志)美麻那近政、府生美努伊遠来、近政、々忠、々宗、依右府命日記、伊遠者依中納言命又日記、右府僕玉(手)則武、是則中納言従者、引率数多弓箭者、令召捕之間、則武所能其責放矢、射二人使官人等、向事發所間、雑人悉分散、中矢者二人捕得、則武日記二通持来、依入暗不細見、各返給、至則武暫預(看)、看長者、濫吹事多、似無皇憲、
※藤原実資『小右記』正暦六年(長徳元年・995年)7月27日条
以上、藤原道長と藤原隆家が争った七条大路の合戦を紹介してきました。
その後、隆家は兄の伊周とともに花山天皇(法皇)を襲撃(長徳の変)。流罪となったことで道長との権力争いから完全に敗退してしまいます。
戦国時代ほどではないにせよ、各地で合戦が繰り広げられていた平安時代。果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」でも、合戦シーンが描かれるのでしょうか。今から楽しみにしています!
※参考文献:
- 藤原実資『史料通覧 小右記 一』国立国会図書館デジタルコレクション