実はいまだ不明「紫式部はいつ生まれたのか?」さまざまな学説と大河ドラマ『光る君へ』の設定検証【前編】
本名も生年も未だに不明
大河ドラマ『光る君へ』の放送が始まったことで、各種方面で話題沸騰中の紫式部。ご存じ『源氏物語』の作者であり、日本史上知らない人はいないビッグネームです。
にも関わらず、そのプロフィールは現在も未知のヴェールに包まれています。
例えば「紫式部」という呼称だけが知られていて本名が不明なのは有名な話ですが、実は彼女がいつ生まれたのか、その生年もはっきり分かっていません。
大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部は本名ではなかった!では本当の名前は……?【前編】
これには致し方のない理由もあります、よっぽど高位の人でない限り、当時の女性は生年・没年が記録に残らないのが普通なのです。紫式部の本名が不明のままなのも、それが大きな理由です。
そこで今回は「紫式部は何年生まれなのか」というテーマで、さまざまな学説を紹介しましょう。
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歌人の与謝野晶子による「978年説」
紫式部の生年を確定する際の重要な手掛かりが、『紫式部日記』です。これは本人の手になる日記です。中宮・彰子の女房だった彼女が、1008年から1010年にかけて、自分の生い立ちや宮中での出来事を書いたものです。
この書物は紫式部の人となりを知る上で第一級の史料だと言えるでしょう。
紫式部研究のパイオニアで、江戸時代中期の国学者である安藤為章はこの書物を紐解き、そこに記されたさまざまな事柄や言葉遣いをヒントに生年を分析しています。
そうして安藤は、紫式部が『源氏物語』のうち少なくとも一部分を書き終えたのは30歳前後のことだと推測しました。
さらに時代が下り、歌人の与謝野晶子は、これを受けて『源氏物語』が完成したのは1008年であり、紫式部はこの時31歳だったと推理しました。こうして「紫式部978年生年説」が生まれます。
与謝野晶子(Wikipediaより)