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徳川家康の本陣まで突入!「大坂の陣」で見事な武勇を見せた猛将・毛利吉政(勝永)の活躍

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関ヶ原の戦いと改易

関ヶ原の戦いでは父と共に西軍に加担。吉政は伏見城の戦いに参加し、戦功を挙げたことで輝元と宇喜多秀家から3000石の加増を受けました。

ちなみに、父の吉成は豊前国に留まっています。

徳川家康と石田三成が激突した関ヶ原本戦では安国寺恵瓊の指揮下に置かれましたが、家中の混乱に巻き込まれ、活躍なく終わりました。

戦後、毛利親子は家康が伏見城普請中に木材不足で困っていた際、窮地を救った恩により処分はありませんでした。

しかし、所領全てを黒田官兵衛に奪われていたことで改易。

毛利親子は加藤清正、次いで山内一豊のもとへ預けられました。一豊とは旧知の仲であったこともあり、1000石の領地をあてがわれ、厚遇されました。

そして、慶長15年(1610)の正室の死に伴い、出家。一斎と名乗ると共に、翌年には父の吉成が病死しました。 

大坂城へ入城

慶長19年(1614)、吉政は豊臣秀頼から招集を受けたことをきっかけに土佐国から抜け出すことを考えます。

しかし、山内家は徳川側に付いており、自身が豊臣側に付くと妻子たちに難儀が降りかかることを涙ながらに伝えると「秀頼様のために働くことこそ、毛利家の名誉。私たちが心配ならば、波に沈み命を断ちましょう。」と妻が吉政を激励しました。

この言葉に背中を押してもらった吉政は、山内家を欺き大坂城へ向かいました。

しかし、大坂冬の陣は信繫の活躍により、目立った活躍なく収束します。

3ページ目 家康本陣へ突入する奮戦ぶり

 

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