石田三成はじめ有能ぞろい!豊臣政権を支えた5人の家臣「五奉行」の各奉行を一挙ご紹介【どうする家康】
豊臣政権下で奉行職に等しい5人の人物から構成された五奉行。豊臣秀吉没後は実務を担当し、豊臣政権を支えていきました。
そのような重要な役職を仰せつかったメンバーには、前田玄以や浅野長政、長束正家などがいたのですが、石田三成の知名度が高すぎて他のメンバーについて知らない方も多いはずかと思います。
そこで今回は、五奉行の各奉行が何を担当していたのかと簡単な略歴を石田三成も含めてご紹介します。
司法担当・浅野長政
五奉行の筆頭として知られる浅野長政(演:濱津隆之さん)は主に司法に関しての事柄を担当していました。
安井重継の子として生まれた長政は、織田信長家臣で叔父の浅野長勝の養子となったことで浅野家の家督を相続します。
長勝の養子には寧々もいたので、必然的に長政と秀吉は親戚同士となりました。
信長死後、秀吉に仕えた長政は、卓越した行政手腕に目を付けられ、太閤検地を実施する役割に任命されます。
また、東国の武将たちとの親交があったことから秀吉が諸大名から没収した東国の金銀山管理も任されるほど、秀吉から能力を買われていました。
さらに、天正18年(1590)の小田原征伐では三成に代わって戦後処理の主導的な役割を担い、同年に起きた奥州仕置では実行役を担いました。
長政は秀吉との関係が深いこともあり、文禄元年(1592)の文禄の役で秀吉自らが朝鮮に渡ると言い出した際には、「殿下は随分と変わられた。きっと古狐に取り憑かれたのですな。」と遠慮なく物申すこともあったそうで、秀吉を止めることができる数少ない人物だったことがわかります。
この話には続きがあり、自分の首をはねてもこの世には影響がないこと、朝鮮出兵で日本が混乱していること、その状況で秀吉が日本を出たら、日本の平穏が乱れてしまうことを秀吉に伝え、朝鮮への渡海を防ぎました。
そして、慶長4年(1599)に徳川家康暗殺計画の関与を疑われ、甲斐国へ謹慎となり、五奉行の職を解かれます。
その後の関ヶ原の戦いでは、家康と親交があったことから東軍に味方し、江戸城の留守居を務めました。その功績により、常陸国真壁に領地を与えられ、真壁藩を立藩しました。