瀬戸内海に橋を!168名が犠牲になった「五大事故」のひとつ・紫雲丸事故とは?【後編】:2ページ目
事故の五つの要因
ただ、紫雲丸が左に曲がった理由は不明ではあるものの、事故が起きた要因自体ははっきりしていました。列挙すると以下の通りになります。
①紫雲丸が出航直後に100メートルしか進んでいないのに突然北西に進路変更したこと(本当は500メートル進んでから変更するはずだった)
②二隻の船のスピード違反
③亡くなった船長が濃霧の中で目視による注意を怠った
④紫雲丸が衝突直前にいきなりエンジンストップした
⑤衝突直前の同船の突然の左折
こうした点からも、二人の船長の責任は明らかでした。また、事故から8年が経った1963(昭和38)年3月19日には、高松高等裁判所で刑事裁判も行われ、紫雲丸の航海士と第三宇高丸の船長に有罪判決が出ています。
二つの「大橋」建設へ
さて、紫雲丸事故がもたらした大きな影響として外せないのが、四国と本州をつなぐ「大橋」の開通でしょう。
事故を起こした宇高連絡船は、その後、悪天候の中での出航を避けるようになり、これによって輸送上の障害が生じたことから、1988(昭和63)年の瀬戸大橋開通へとつながっていったのです。
また、1998(平成10)年に開通した明石海峡大橋も、紫雲丸事故をはじめとする瀬戸内海での船舶事故を受けて一気に建設・開通への機運が高まったとされています。
これらの「大橋」の架橋によって、四国と本州を結んでいた宇高航路は次第に使われなくなりました。そして航路開設から78年目、すなわち瀬戸大橋が開通した1998(昭和63)年の4月9日に航路としての役割を終えています。
紫雲丸は呪われた船?
ところで、実は紫雲丸は複数回の事故を起こしており「呪われた船舶」とされることもあります。
最初の事故は1950年(昭和25年)3月25日に宇野を出航した鷲羽丸と衝突した事故で、これにより紫雲丸は沈没し7名が死亡しました。その後も1951~1952年の二年の間に接触事故を一回、衝突事故を二回起こしています。
そして五度目の衝突事故が本稿で紹介した第三宇高丸との衝突事故で、「紫雲丸事故」と言えば最も犠牲者数が多いこの事故を指すことが多いです。
さらに言えば、引き揚げられた紫雲丸はその後も修復して「瀬戸丸」と改称して使われ続けました。しかしそれからも一度衝突事故を起こし、1966(昭和41)年3月30日に終航となっています。