圧倒的な兵数の差でなぜ勝てたのか?真田と徳川の因縁の始まり『第一次上田合戦』の勝因を解説:2ページ目
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圧倒的な数を前になぜ勝てたのか?
7000人の徳川勢に対して、真田勢は2000人余り。3倍以上の兵数に昌幸は力攻めはせず、地の利を生かした戦法で翻弄しました。
戦い方としましては、徳川勢を上田城二の丸までおびき寄せた後に一斉射撃。次いで城下町に火を放ち、視界を遮った上での伏兵と別動隊として砥石城で待機していた真田信之の奇襲を仕掛けました。
また、あらかじめ設置していた千鳥掛けの柵(進行方向に向けて柵を設置し、撤退時に柵が返し刃のようになり抜け出せにくくなる設置方法)で撤退しにくい状況を作りました。
辛うじて撤退できた徳川勢は退路であった神川を渡河するも、川の勢いをせき止めていた堰を破壊。増水した川に飲まれ、多くの溺死者を出させました。
この戦いでの死傷者は、真田勢40人の死者に対し徳川勢は1300人。
また、天正13年(1585)11月に徳川家家臣の石川数正が豊臣家に出奔したことを機に徳川勢は全軍撤退し、昌幸たちの圧勝で幕を閉じました。
その後の真田家
その後は、上杉景勝の仲介で豊臣秀吉の家臣となり、家康と和解。そのあかつきに徳川の与力大名となりました。
それのおかげもあり、信之と本多忠勝の娘・小松姫との婚姻が成立しました。第一次上田合戦を経て、真田氏は大名としての地位を確立したと言っても過言ではありません。
最後に
第一次上田合戦は武田や徳川の一家臣であり、小領主にすぎなかった真田氏が大名に出世できた歴史的な戦であります。
また、真田軍を指揮した昌幸の知略が評価されるきっかけともなり、真田の名前を世に知らしめた戦でもあります。
また、徳川は真田の恐ろしさを知るきっかけになりつつも、第二次上田合戦や大坂の陣で再度真田と戦うことになるので、この戦いで両家の長らく続く因縁が始まったと言っても過言ではありません。
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