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実は織田家を代表する気性の荒さ!?鬼武蔵・森長可の破天荒さがわかるエピソード3選【どうする家康】

実は織田家を代表する気性の荒さ!?鬼武蔵・森長可の破天荒さがわかるエピソード3選【どうする家康】

本能寺の変で戦死した森乱の兄で「鬼武蔵」の異名を持つ森長可(もり-ながよし)。長可も乱と同様に若くして戦死してしまうのですが、短い生涯の中で多くのエピソードを残しています。

その中には、長可が破天荒と思ってしまうような気性の荒く、型破りな性格が目立ったエピソードもありました。今回は、織田家の猛将・長可の破天荒さがわかるエピソードを紹介します。

武蔵守の由来

織田信長が上洛した頃、内裏修理の普請のために諸将を上洛させました。その際に瀬田(現在の滋賀県大津市)の橋に関所を設けました。

関所通過には下馬をして名前を言わないといけないのですが、長可は名乗っただけで関所を通過しようとします。これにはすかさず「下馬をして通られよ」と関守たちは長可を足止めします。

長可は急いでいたこともあってか、あろうことか関守たちを斬り捨て強行突破。また、足止めしようとする町人たちにも町を燃やすと脅しをかけ、強行突破しました。

こうして信長の元に着いた折、関所であったことを説明した上で「切腹して詫びる覚悟」と伝えます。しかし、信長は長可の行動に対して大笑い。

「昔、五条橋で人を斬った武蔵坊弁慶がいた。お前も橋で人を斬ったのだから、弁慶にあやかって今後は武蔵守と名乗るように」と言いました。信長のこの発言によって、長可はお咎めない上に武蔵守を名乗る許可も得たのでした。

しかしながら、長可が武蔵守を名乗り始めるのは信長死後の天正11年(1583)のことです。創作ではありますが、エピソードから長可の気性の荒さと信長から寵愛されていたことがうかがえます。

2ページ目 甲州征伐で2度の軍規違反、神蛇を喰らう

 

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