唐入りを先導した、語学堪能な“黒衣の宰相”
西笑承兌 さいしょうじょうたい
[でんでん]秀吉の政治顧問、外交役も務めた臨済宗の僧。明を手に入れるべく唐入りを目論む秀吉に入れ知恵し、泥沼の戦へと突き進む原因を作る。その後もしぶとく生き残り、家康にも使える(原文ママ)。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より
……随分と悪意に満ちた人物紹介ですね。まるで「秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)はコイツのせいだ」と言わんばかりです。
文中「その後もしぶとく生き残り」という表現には「本来ならば責任をとって死ぬべきだろ」という非難が感じられます。
果たして彼はそんな生きていることを非難されるような悪人だったのでしょうか。今回は西笑承兌の生涯をたどってみましょう。
秀吉の政治顧問として、各分野で活躍
西笑承兌は天文17年(1548年)、山城国伏見(京都市伏見区)で誕生します。その出自についてはよく分かっていません。
幼いころから出家して仏門に帰依し、臨済宗の仁如集堯(にんじょ しゅうぎょう。一山派)に師事しました。
やがて夢想派に転じて中華承舜(ちゅうか じょうしゅん)の嗣法(しほう。法をつぐこと、転じて後継者)となり、天正12年(1584年)に京都相国寺の住職となります。
相国寺は臨済宗相国寺派の大本山でしたが、当時は火災や戦乱でたびたび焼け落ちるなど、すっかり荒廃していたそうです。
それをみごとに再興した西笑承兌は中興の祖と呼ばれるようになりました。続く天正13年(1585年)には鹿苑僧録(ろくおんそうろく)として臨済宗の最高権威に上り詰めます。
その後は南禅寺に入ったり鹿苑僧録に戻ったりしていたら羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)に見込まれて政治顧問に抜擢。諸法度の整備や教育振興など、各方面に活躍しました。
また羽柴秀長(演:佐藤隆太)や豊臣秀頼(演:作間龍斗)とも交流を深めたと言います。