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暗愚の悪評も…武田勝頼が悪評を受けた理由と実際におこなった功績を紹介【どうする家康】

暗愚の悪評も…武田勝頼が悪評を受けた理由と実際におこなった功績を紹介【どうする家康】:2ページ目

勝頼の功績

勝頼が生前に残した大きな功績は「武田家史上最大の領地拡大をした」ことです。勝頼は元亀4年(1573)の信玄の死後、翌年の天正2年(1574)に東美濃に侵攻。苗木城や阿寺城、千旦林(せんかんばやし)城といった遠山十八支城(岩村遠山氏が所有する城や砦)を次々と落としました。

そして、同年2月には山県昌景が美濃・尾張・三河・遠江攻略の拠点となる明知城や飯羽間城を攻略しました

その勢いのままに5月には遠江支配強化のために高天神城へ侵攻します。城主の小笠原信興は、徳川家康から援軍が来ないまま60日間籠城しましたが降伏。ついに、勝頼は信玄が落とせなかった高天神城を攻略すると共に、領地拡大を成し遂げました。

しかし、怒涛の勢いも1年と続かず、天正3年(1575)の長篠の戦いでの大敗を機に失墜していきました。その後は、勢いを取り戻すことができず、天正10年(1582)に天目山の戦いの敗北により勝頼は自刃しました。

最後に

勝頼は諏訪家の家督を継いでいたので、武田家の家督を人間ではありませんでした。しかし、家督を継ぐべき人間がいなかったが故に家督を継いだ背景があります。

また、側室の子だったこともあり、勝頼が当主になったことに反発を持った人物もいた方かもしれません。

勝頼はその人物達を納得させるために約1年で領土拡大させたと考えると勝頼の実力は本物だったと言わざるを得ません

それでも武田家を滅亡させた張本人ということで、悪評を受けたしまったことは残念に感じます。勝頼に正当な評価が確立されてほしいばかりですね。

出典:伊藤潤『敗者烈伝』‎2016年、実業之日本社

 

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