【朝ドラらんまん】堀井丈之助のモデル?小説家・坪内逍遥の生涯③:2ページ目
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新劇運動での活躍と双柿舎での日々
逍遥は、早稲田大学で文学者としての活動を続けながら、新たな道にも進んでいきました。
明治39(1906)年、小説家・島村抱月らと共に文芸協会を開設。新劇運動の先駆けとして活動します。
明治42(1909)年9月には、演劇研究所を開所。当初の研究生22名を抱えての船出でした。
同年12月には因縁のある『ハムレット』を刊行。昭和3(1928)年に至るまで、シェイクスピア全作品の翻訳刊行を果たしました。
朝ドラで「俺がシェイクスピアの全作品を翻訳したら」と、堀井丈之助が言っていましたね。逍遥は、実に足掛け19年に及ぶ大事業を見事に完成させたのでした。
大正9(1920)年5月、熱海・双柿舎が完成。逍遥はここに移り住んで暮らすようになります。
高齢になっていた逍遥ですが、演劇に対する情熱は衰えません。
かつて自分が刊行したシェイクスピア全集の翻訳の改訂作業を続行。昭和8(1933)年に『新修シェークスピヤ全集』の配本を実現させました。
逍遥は、無事に自分の成した仕事を見届けることができたのです。
昭和10(1935)年2月28日、逍遥は双柿舎で病没。享年75。
日本の文芸史に新風を吹き込んだ偉人の生涯でした。
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