浅井長政(大貫勇輔)とは無関係だけど…徳川家に代々仕えた三河浅井一族を紹介!【どうする家康 外伝】:2ページ目
家康に仕えた浅井忠次・元忠
忠次
道之助、平右衛門 母は某氏。
若年より岡崎三郎信康君に仕へ、元亀三年十二月二十二日三方旗合戦のとき、東照宮にしたがひたてまつり、矢面にむかひて高名し、文禄元年死す。年四十二。法名道春。※『寛政重脩諸家譜』巻九百六十二 藤原氏 支流 浅井
浅井重忠の子・浅井忠次(ただつぐ)は天文20年(1551年)に誕生。母親は不明で通称は道之助そして平右衛門(へいゑもん)と名乗りました。
若い頃から家康の嫡男・松平信康(演:細田佳央太)に仕え、22歳となった元亀3年(1572年)、12月22日の三方ヶ原合戦に従軍します。
徳川劣勢の中、忠次は家康を守るべく敵の矢面に向かい武勲を立てました。
多くの将兵が討死する中、何とか生き延びた忠次。しかし矢を浴びて満身創痍だったのか、その後は大きな活動をしていません。
そして文禄元年(1592年)に42歳で世を去りました。
元忠
三九郎、平右衛門、母は某氏。
慶長五年めされて、東照宮につかへたてまつり、大番をつとむ。時に十五歳 十五年四月十八日武蔵国比企郡のうちにをいて采地百十石餘の御判物をたまひ、寛永二年武蔵国橘樹郡のうちにをいて百石を加へられ、十年二月七日同郡のうちにをいて二百石を加増せらる。正保二年六月二十九日死す。年六十。法名道悟。四谷の西念寺に葬る。後代々葬地とす。妻は相模国大山寺の別当八大坊某が女。※『寛政重脩諸家譜』巻九百六十二 藤原氏 支流 浅井
忠次の子・浅井元忠(もとただ)は天正14年(1586年)に生まれました。
母親は不詳、通称は襲名した平右衛門、または三九郎(さんくろう)と称しています。
15歳となった慶長5年(1600年)に家康の大番(おおばん。旗本の一種)として仕え、その身辺を護衛しました。
やがて慶長15年(1610年)に武蔵国比企郡の所領110石を賜ります。以後も順調に加増され、寛永10年(1633年)までに410石取りとなりました。
そして正保2年(1645年)6月29日、60歳で亡くなります。
終わりに
【三河浅井一族の略系図】
……元重-重忠-忠次-元忠-智忠(のりただ)-忠親-房忠-忠陳(ただむね)-忠卿(ただあき。肥後守)-忠吉-忠辰(ただとき)……
※『寛政重脩諸家譜』巻九百六十二 藤原氏 支流 浅井
以上、徳川家に代々仕えた三河浅井一族を紹介してきました。
ちなみに家紋は「丸の内根篠に三日月」および「丸に笹文字」との事です。
大河ドラマには絶対出てこないでしょうが、もし合戦シーンにおいてこれらの家紋を見かけたら、ワンチャン彼らかも知れません。
こうした無数のマイナー武将に支えられ、天下取りを果たす「我らが神の君」。彼らの思いに報いる大将として、更なる成長に期待したいところです。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第六輯』国立国会図書館デジタルコレクション