信玄の死を隠し通した!?武田信玄の影武者として知られる武田信廉を紹介【どうする家康】:2ページ目
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勝頼とはそりが合わず…
信廉は、武田勝頼とそりが合わず、天正3年(1575)の長篠の戦いに参加するも、穴山信君と共に早々と退却しています。天正10年(1582)の甲州征伐でも、抵抗することなく大島城を明け渡しています。
その後は、織田軍の残党狩りだった森長可の配下に名馬を見せると騙されて討ち取られました。
影武者信廉
信廉は信玄と顔が似ていると言われており、側近ですら見分けがつかないほどでした。そのため、西上作戦中の信玄病死の際は、影武者として成りすまし撤退を指示しています。
また、信玄の死を確かめに来た北条家からの使者・板部岡江雪斎(いたべおか-こうせつさい)に信玄として振る舞い、その死を隠し通したとの話が残っています。
最後に
信玄の影武者として生きた武田信廉。大きな戦功もないので、武将としての能力は信玄や信繁と比べると低かったのかもしません。また、絵を描く才能があり、信玄と顔が似ていなかったら、戦国武将ではなく画家として戦国時代を生きていたかもしませんね。
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