織田信長を火縄銃で狙撃した謎多き男「杉谷善住坊」とは?狙撃の理由やその後に迫る:2ページ目
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信長を狙撃した状況と理由
善住坊が信長を狙撃したのは元亀元年(1570)、京都から伊勢国(現在の三重県北部)と近江国(現在の滋賀県)を結ぶ街道・千種街道を通る迂回路を経て、岐阜城に戻る時でした。
この時の善住坊と信長の距離は20数メートル。近距離で撃った2発の銃弾は信長に当たりましたが、かすり傷程度で済んでしまいました。
なお、狙撃の際に使用した場所は、「杉谷善住坊のかくれ岩」として現在も残っています。
善住坊が信長を狙撃した理由は、『信長公記』を見るに六角義賢(ろっかく-よしかた)からの依頼と指摘されています。
六角氏は永禄11年(1568)、信長と戦った観音寺城の戦いでの大敗により、衰退の一途を辿りました。
そんな時に訪れた信長の岐阜城撤退。千載一遇のチャンスを得たとばかりに、火縄銃の名手・善住坊に暗殺を依頼したのではないかと考えられます。
善住坊の惨たらしい最後
信長を狙撃後、善住坊は逃亡生活を送ります。対して信長は、暗殺されかけた事に激怒し、徹底的な犯人探しが行われました。
そして天正元年(1573)、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)にいたところを、領主だった磯野員昌(いその-かずまさ)によって捕縛されます。
その後は、菅屋長頼(すがや-ながより)と祝重正(はふり-しげまさ)の尋問を受けました。最終的に、生きたまま首から下を土に埋められ、竹のノコギリでゆっくりと首を切断する鋸挽きの刑による最後を迎えました。
最後に
信長を狙撃した男である杉谷善住坊。信長を狙撃する度胸や銃弾を命中させた技量から火縄銃の名手としての実力はあったのは確かです。
しかし、その分の代償を負ったのは事実。ノコギリでゆっくりと首を切られる痛みは、想像を絶するかと思います。それ程、暗殺に対する怒りが溜っていたのではないかと考えてしまいます。
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