虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【前編】:2ページ目
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信玄を追う家康
さて、織田信長は武田信玄とも同盟を結んでいたので、徳川領への侵攻はまさに寝耳に水だったと言います。
信玄挙兵の報せを受けた信長は、さっそく家康に援軍を送ったものの、おそらく2万5千もの武田軍には敵わないと考えていたのでしょう、その援軍の戦力は必要最小限のものでした。
そして家康はと言えば、自らの居城である浜松城が攻められるとあたりをつけて籠城戦の準備を始めます。兵力差を考慮すると、真正面から衝突するよりもその方が戦術として最善だろうと判断したのです。
徳川軍は浜松城にとどまり、武田軍を迎え撃つ準備を進めましたが、当の信玄は城の前を素通りして三方ヶ原へ向かいます。
まだ血気盛んだった当時の家康は、無視されたと感じて激怒し、武田軍を追いかけて背後をつくことを考えます。彼は家臣の制止も聞かず、1万ほどの軍勢で出陣しました。
しかしこれこそが信玄の狙いで、彼は徳川軍を待ち構えており、あっという間に蹴散らしてしまうのです。
これが世に言う三方ヶ原の戦いですが、この後で、後に俗説として語り継がれる「空城の計」「家康の失禁」などのエピソードが出てきます。これらについては【後編】で検証します。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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