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毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【後編】

毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【後編】

毛利元就の財力を支えた「銀」

こうして、1562年以降の20年間、石見銀山は毛利氏によって領有されることになります。

元就は、朝廷に石見銀山を献上し、銀100枚ほどを毎年上納することで、自分が銀山の正当な支配者であることを示したといいます。

元就はこのほかにも石見銀山を大いに活用しました。例えば石見銀を温泉津から出荷して、大陸との交易で拠点としていた赤間ケ関(現在の山口県下関)で、火薬の原料となる中国製の硝石を購入したりしています。

また、かの厳島神社にもたくさんの石見銀を寄附しており、回廊を建立する際にはかなりの費用を負担したとされています。

こうした事柄を見ていくと、改めて当時の石見銀山の存在感の大きさや、最終的に領有した毛利元就の経済力を「銀」が支えていたことが分かりますね。

ちなみに余談になりますが、尼子晴久という人物は織田信長や徳川家康のようなビッグネームと比べるとやや影が薄いものの、石見銀山を巡る熾烈な戦いでは将としても優れた才能を見せ、毛利元就を何度も撃退するなどの活躍ぶりでした。今でも根強いファンが多く存在します。

一時は石見銀山を支配した尼子氏も、名将として誉れ高い尼子晴久の没後は衰退し、その後5年で毛利元就に攻め滅ぼされています。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

 

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