勝者は家康か秀吉か?小牧・長久手の戦いの歴史上の位置づけを考察する【後編】:2ページ目
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やっぱり勝者は秀吉
また家康の側も、あくまでも信雄を支援するという立場だったことから、これ以上戦闘を続ける理由はなくなります。彼も和睦に応じました。
さらに秀吉は、他にも和睦の条件として、信雄・家康の両者から人質を取ります。
ここで家康が差し出したのが次男の於義丸(結城秀康)で、彼は「秀吉の養子」という名目で大坂へ送られました。細かく言えば、徳川方としては「秀吉の養子」という認識なのですが、秀吉の側では「人質」として捉えていたということです。
こうして見ていくと、小牧・長久手の戦いは、軍事的には引き分けに終わったと言うべきですが、政治的な勝者は秀吉だったと言えるでしょう。
私たちは後の歴史を知っているので、豊臣家がその後衰退していくことを知っていますが、この時点では、やはり秀吉には勝利の女神がついており、徳川家康はあくまでも「臥薪嘗胆」の立場だったと言えるでしょう。
また、信雄と家康がそれぞれ単独で秀吉と講和を結んだことで損害を被ったのは、家康に加勢した紀伊の根来寺、雑賀衆、四国の長宗我部家でした。それまではバックに家康がつく形で秀吉に対抗していた彼らでしたが、後ろ盾がなくなったことで、秀吉に立てついたという結果だけが残ることになったのです。
このため、それぞれその後の紀州攻め・四国攻めによって、1585年8月までには秀吉によって討伐されたのでした。
小牧・長久手の戦いは明確な勝者が存在しない戦闘だったと言えますが、こうして歴史の流れを見ると、やはり羽柴秀吉がその後の天下統一に向けて地盤を固めていく足がかりの一つだったと言えるでしょう。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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