ザ・北政所(きたのまんどころ)!豊臣秀吉の妻・高台院の敏腕政治家ぶりと影響力:2ページ目
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その仕事ぶりと晩年
高台院が行っていた政務の一つには、朝廷との交渉があったといいます。
また当時、大名の妻子は実質的な人質として大阪で暮らしていましたが、彼らの暮らしや動向に目を配っておくのも高台院の仕事の一つでした。
さらに朝鮮出兵では物流に関する指揮にも携わっていて、秀吉の朱印状だけでなく高台院の「黒印状」が必要な場所もあったようです。
このように彼女は豊臣家の政治に深く関わっていたため、秀吉の死後もその影響力はかなりのものでした。あの徳川家康も、彼女を頼ったことがあるようです。
ちなみに彼女と秀吉との間に子はありませんでしたが、側室の淀殿とその息子である秀頼の後見を務めています。
高台院本人は、秀吉逝去後は政治的に中立の立場を保つことを心がけていました。もちろん、いくら中立と言っても豊臣側の人間であるため、関ヶ原の戦いでは少し危うい立場に立たされますが、その後は出家して高台院湖月心尼の院号を賜ります。
1615年の大阪の陣で豊臣家が滅亡した後も、彼女と江戸幕府との関係は良好だったようです。
高台院は豊臣の滅亡と新時代の幕開けを見守りながら、1624年に死去。その享年は76歳であったとも、83歳であったとも言われています。
参考資料
月刊女性誌「アー・ユー・ハッピー?」公式サイト
戦国ヒストリー
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