茶屋四郎次郎って何した人?3世代にわたって徳川家康を支えた京都の豪商【どうする家康】:2ページ目
2代目茶屋四郎次郎、茶屋清忠
慶長元年(1596)に清延が亡くなり、その後を継いだのが2代目茶屋四郎次郎の茶屋清忠です。慶長3年(1598)に豊臣秀吉が病死を機に、家康の権力が増大。それに伴い、清忠は京都と大坂の物流の取締役に任命されました。
また、関ヶ原の戦い後には京都の情勢が不安定であることを家康に報告し、それがきっかけで京都の治安維持を職務とした京都所司代が設置されました。清忠は京都町人頭に任命されます。
しかし、慶長8年(1603)に跡継ぎを残さないまま、病死しました。
3代目茶屋四郎次郎、茶屋清次
病死した清忠に子がいなかったため、3代目茶屋四郎次郎となったのは清忠の弟・茶屋清次でした。元々長谷川藤広の養子でしたが、清忠急死で急遽茶屋家を継いでいます。
清次は、家康の後押しで慶長17年(1612)から朱印船貿易の特権を獲得。以後はベトナムとの貿易で巨万と富を得ました。
さらに、その富で茶道具をコレクションし、寛永の三筆の1人本阿弥光悦に芸術支援を行いました。
また、清次は家康にタイの天ぷらをすすめた人物としても知られています。
詳細として、元和2年(1616)、駿府国田中城での鷹狩後に家康は清次を招集。清次に京都や大坂での流行り物を聞いたところ、タイの天ぷらにすりおろしたニラをかけた料理と家康に答えました。
その発言がきっかけとなり、家康はタイの天ぷらを食しました。
その夜に家康が体調不良となり、同年4月に病死したことで、家康の死因はタイの天ぷらという俗説が誕生するきっかけにもなっています。
家康の死後から6年後、清次は38歳の若さで死去。以後の茶屋家は1800年に呉服御用の差し止めを受けた後、明治期になって廃業となりました。
茶屋家の現在
一時期は角倉家と後藤四郎兵衛家と共に「京の三長者」と呼ばれていた茶屋四郎次郎家。意外なことに、清延の3男・長吉が創設した尾張の尾州茶屋家と清延の4男・宗清が創設した紀州茶屋家の分家がありました。
共に徳川家に仕えていたので、茶屋御三家と言われていたそうです。
現在では本家である茶屋四郎次郎家は途絶え、紀州茶屋家も途絶えています。しかし、尾州茶屋家はまだ存在しており、子孫の方が学校法人茶屋四郎次郎学園を創立。茶屋四郎次郎の名を後世に残されています。