徳川家康にとって人生3度の危機の1つである三河一向一揆。この一揆に乗じて、家康に敵対したもう1つの松平家当主がいました。その人物は松平昌久(まつだいら-まさひさ)で、大草松平家4代目当主を務めていました。
そのような人物が、何を理由に家康に立ちはだかったのか気になりますよね。
そこで今回は、家康に立ちはだかった松平昌久の生い立ちと大草松平家について紹介します。
ちなみに、2023年1月8日に放映予定の大河ドラマ『どうする家康』で、お笑いトリオ東京03の角田晃広さんが松平昌久を演じることが決定されています。
大草松平家の誕生
松平昌久は、大草松平家3代目当主・松平昌安を父に持ちます。
また大草松平家は、元は岡崎城を居城としたため、岡崎松平家を名乗っていました。しかし、昌安の代で家康の祖父・松平清康に属城の山中城を攻略されます。
その際に岡崎城を明け渡し、自身の娘を清康に嫁がせました。その後に昌安は大草城に移ったので、大草松平家を名乗りました。
以後、大草松平家は清康の安祥松平家に仕えることになります。
松平昌久の生涯
昌久も父の昌安同様、安祥松平家に仕えていました。しかし、永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発すると、安祥松平家当主・徳川家康に敵対します。
昌久は再起を考えていた今川家臣の吉良義昭と協力。義昭が居城とする東条城で挙兵しました。
三河一向一揆は、昌久や義昭たちの家康に敵対する勢力が優勢でしたが、永禄7年(1564)1月に、家康が一揆を解体すると事態は一変。家康サイドが優勢になり、同年2月に東条城は落城しました。
落城後、昌久は行方をくらませ、その後の動向は不明なまま歴史の表舞台から退場しました。