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稀有な義理堅さが仇となった名将。賤ヶ岳の七本槍の一人・福島正則の生涯をたどる

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時代にあわせられなかった男

次第に、正則は徳川幕府から冷遇されていきました。

家康がこの世を去った翌年の元和3(1617)年、洪水で破損した広島城の修築要請を幕府に願い出ます。当時は、武家諸法度によって城郭の改修には事前の許可が必要と定められていたのです。

が、いくら待っても許可が下りず、無許可のままで修築に取りかかりました。誰がどう見ても仕方のない措置だったのですが、これは明らかなルール違反でもありました。

その結果、元和5(1619)年に徳川秀忠によって領地の没収を命じられ、安芸・備後49万8千石から信濃国・川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5千石への大幅な減転封となってしまいます。

正則は嫡男・忠勝に家督を譲って蟄居しますが、翌年に忠勝が早世し、幕府に2万5千石を返上せざるを得なくなりました。そして寛永元(1624)年7月13日、蟄居先の高井野の幕府代官所で、失意のうちに正則は亡くなりました。享年64歳。

また彼の死後、福島家の家臣が、幕府の検使が到着する前に正則の遺体を火葬してしまったことから、福島家は残りの2万石も没収されてしまいます。

後を継いだ正利は3千石の旗本の身分になり、大名の座も失っています。その後は再興して幕末まで2千石の旗本として存続しました。

こうして見ていくと、福島正則という武将は、裏切りも当たり前の戦国時代では稀有なほど義理堅い人物でした。しかしその愚直さゆえに新しい時代に自らの態度をあわせていくことができず、新しい時代にそぐわないまま亡くなったと言えるでしょう。

参考資料
歴人マガジン
戦国国こぼれ話

 

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