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謀叛人の娘がなんだ!愛妻との離縁を断固拒否した北条朝直(トキューサ嫡男)のエピソード【鎌倉殿の13人 後伝】

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北条朝直の息子たち

さて、ここで北条朝直の息子たちについて見ていきましょう。

……申刻。相摸四郎朝直室〔武州御女〕男子平産。

※『吾妻鏡』寛喜3年(1231年)4月19日条

【意訳】16:00ごろ、朝直の正室(泰時の娘)が男児を出産。母子ともに健康。

この子が恐らく長男の北条朝房(ともふさ)。『系図纂要』によると全5名の男子が誕生していますが、朝直は側室として安達義景(あだち よしかげ。安達盛長の孫)の娘も娶っているため、どっち(あるいは身分が低い他の女性)が母親かは不明です。

長男・北条朝房

通称は武蔵太郎。備中守・式部大夫を歴任し、従五位下に叙せられます。しかし父から勘当(義絶)され、永仁3年(1295年)に鎮西(九州)で亡くなりました。鎌倉を追放されてしまったのでしょうか。

次男・北条時仲(ときなか)

生没年不詳、武蔵左近大夫将監とのみあります。もう少し情報が欲しいですね。

三男・北条時忠(ときただ。大仏宣時)

通称は武蔵五郎。「五郎」は祖父・時房の通称であり、家督を継いだことが判ります。後に宣時と改名、また鎌倉大仏の近くに住んだため大仏宣時(おさらぎ のぶとき)と呼ばれました。

四男・北条頼直(よりなお)

通称は武蔵八郎、一気に跳びましたね。間は女子なのかも知れません(男男女女男女女男男)。こちらもこれ以外に情報がなく、今後の解明が俟たれます。

五男・北条朝貞(ともさだ)

通称は武蔵九郎。コメントは「下野守(に任じられたこと)」のみ。5人兄弟を見ると四男の頼直だけ何の官職もありません。母親は側室(安達義景の娘)か、あるいは更に身分が低かった可能性も考えられるでしょう。

終わりに

閑話休題。こうして愛妻と別れてしまった朝直。しかし泰時の娘としても自分の意思で嫁いだ訳ではないのだし、いつまでも悲しい顔で迎えられてはたまりません。

事情はどうあれ結婚する以上、朝直には彼女にも幸せな家庭を提供する(作るべく協力する)義務があるでしょう。もちろん、安達義景の娘に対してもです。

人間、死ぬときは誰でも独り。だから生きている間くらいは寄り添っていたい。そんなことを誰が言ったか、ご縁によって別れも出会いもめぐる中、いま一緒にいる(いてくれる)相手を少しでも大切にしたいと思います。

※参考文献:

  • 飯田忠彦『系図纂要 五十 平氏 五』国立公文書館デジタルアーカイブ
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 10 御成敗式目』吉川弘文館、2011年5月
  • 藤原定家『明月記 第二』国書刊行会、1911年10月
 

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