三浦の犬は友を食らう…和田義盛を裏切った三浦義村に痛烈な批判【鎌倉殿の13人】:3ページ目
終わりに
以上が『古今著聞集』の伝える「三浦犬は友をくらふ」エピソード。もう少し深堀りしてみると、この一件は建保7年(1219年。承久元年)のことと推測されます。
・鎌倉の右府将軍家……源実朝が鎌倉殿であったころ(~建保7・1219年)
・千葉介胤綱が家督を継いだのは建保6年(1218年)
※鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には1月1日の記述なし。
建保6年(1218年)の正月に千葉介を襲名した胤綱が、その翌年に「我こそは千葉介(≒※三浦介よりも格上)なり」と義村の上座を占めたのでしょう。
※三浦介は「三浦にいる相模国司の副官」、千葉介は「千葉にいる下総国の副官」。延喜式によると相模国は上国、下総国はそれより格上の大国になります(大国>上国>中国>下国)。
鎌倉幕政においては後塵を拝していようと、あくまで三浦よりも千葉の方が上なのだ……そんな胤綱による無言の挑発に乗ってしまった義村の酒は、さぞ苦かったことでしょう。
※参考文献:
- 橘成季ほか『古今著聞集』国立国会図書館デジタルコレクション
- 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月