暗雲立ち込める豊臣政権!朝鮮出兵の失敗と家臣団の分裂の経緯を追う:2ページ目
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分断される家臣団
慶長の役でも、明が大軍を派遣してきました。これに対して豊臣軍も体勢を整えていざ全面戦争……というところまで行ったのですが、ここで秀吉が病死。豊臣軍はタイミングを見計らい、日本へ撤収することになりました。
このあたりから、豊臣政権そのものに綻びが現れてきます。朝鮮での活躍に見合うだけの恩賞がもらえず、「誤った評価を受けた」と不満を持った加藤清正などの武将たち(武断派)と、石田三成をはじめとする官僚たち(文治派)が対立するようになったのです。
このいざこざが関ヶ原の戦いへと発展し、政権崩壊へとつながっていきました。
政権崩壊につながったもうひとの要因は、豊臣軍が朝鮮に対して戦力を注ぎ込みすぎたことでした。
徳川家康の軍は朝鮮に渡っていなかったので全くダメージがなく、結果的に豊臣の兵力を凌駕することになったのです。
最終的に、朝鮮出兵は朝鮮の占領も叶わず撤退という形に終わりました。しかしそれよりも豊臣にとっては、この朝鮮出兵によって家臣内の関係に亀裂が生まれ、その後に深く響いてしまったことのほうが問題だったかも知れません。
参考資料
刀剣ワールド
歴史まとめ.net
朝鮮出兵 文禄・慶長の役
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