戦国時代屈指の忍者集団「真田忍軍」!その活躍ぶりと武田信玄との関係とは?【後編】:2ページ目
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信玄の死
信玄が育成していた透破(忍者)の数は千人を超えていたと言われています。
そんな透破の頭領として活躍していたのが富田郷左衛門と出浦盛清で、盛清はのちに真田忍軍と大きな関わりを持つようになります。
彼の忍者としての才能は群を抜いており、こんな逸話も残っています。ある時、部下の忍者に敵城での情報収集を命じた盛清は、部下よりも先に自分自身が潜入して自ら情報を持ち帰り、部下の情報の正確性を確認したというのです。
やがて、1573年に信玄が死去すると、それを追うようにして翌1574年に幸隆も死去。真田忍軍は真田昌幸へと引き継がれます。
出浦盛清は引き続き武田家に仕えていましたが、1582年に武田家が滅亡すると、新たに信濃の領主となり海津城に入った森長可に仕えるようになります。
所領を守るために…
本能寺の変により長可が本拠地の美濃へ撤退すると、盛清は真田家に仕えるようになりました。
そして横谷幸重とともに真田忍軍の頭領となり、忍者の育成に貢献するなど、真田家の重要な戦力として活躍しました。
その後、真田家は本能寺の変の後の甲斐・信濃をめぐる徳川・北条・上杉の三つ巴の戦いに巻き込まれていきます。
しかし、忍軍から得られた情報を生かして、各大名の間を巧みに渡り歩き、所領を守り抜きました。
その後の小田原征伐でも、参加した真田家の武将の中には出浦盛清と横谷幸重の頭領2人の名前が記録されています。また、忍軍で実力者として活躍した唐沢玄蕃や割田重勝もそこに名を連ねています。
のちに大坂の陣で華々しく散った真田幸村と、それを支える真田十勇士というヒーロー像が創り上げられたのも、このときの真田忍軍の活躍があったからこそなのでしょう。
参考資料
刀剣ワールド
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