鎌倉時代、鎌倉にはどのくらいの人が住んでいたのか?『吾妻鏡』の記録から推算:2ページ目
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酒甕は一家に一口だけ!
天晴。沽酒禁制殊有其沙汰。悉以被破却壷。而一屋一壷被宥之。但可用他事。不可有造酒之儀。若有違犯之輩者。可被處罪科之由。固被定下之云云。
※『吾妻鏡』建長4年(1252年)10月16日条
さて、酒甕の数を調査させた幕府当局は翌月、これらをすべて壊すように命じました。
「甕などあるから、酒を造って売って呑んで悪さをするのだ。よってすべて叩き割れ!」
しかし民衆はこれに反対。あまりに抗議が強かったためか、当局は妥協案を示したと言います。
「分かった分かった。ならば酒甕は一家に一口だけ所持を許す。ただし、決して酒を造ってはならぬぞ。違反した者は厳罰に処すゆえ、心せよ」
「「「へーい」」」
当然そんなの守るはずもないのですが、幕府当局としても呑み過ぎて羽目を外さなければ見逃す気満々だったようです。
いちいち取り締まるのも面倒ですし、完全に酒を奪ってしまうと今度はそのストレスでトラブルが続出しても困りますからね。
とまぁこんな具合に、鎌倉では細々と酒を呑んだり取り締まったり、武士も民衆もひしめき合って暮らしたということです。
※参考文献:
- 高橋慎一朗『武士の掟 「道」をめぐる鎌倉・戦国武士たちのもうひとつの戦い』新人物往来社、2012年2月
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